2025年5月15日木曜日

ブルッハ(魔女)の天気予報と新しい仕事

ブルッハ(魔女)の天気予報と新しい仕事

目覚めると、窓の外の瓦をポツポツと雫が叩いている。雨音が聞こえない所を見ると大して降ってもいないようだと思ったが、出勤するのが億劫になるのは同じだ。エマニュエルは、何故か昔から濡れるのが嫌いだった。

ジャンヌは既に起きて、朝食の準備をしているようで、昨夜のスープを温め直している事が目では無く鼻でわかった。ベットから出たエマニュエルは、春とは思えぬ程の肌寒さに、眉を顰めながら素早く服をきた。

「おはよう。今日は早めに出たほうがいいわよ。昨日マドガさんが今日は大荒れになるって言ってたから」とジャンヌが、バゲットを切り分けながら言った。

エマニュエルは窓の外を見て、遠くにある重たげなブルーグレーの雲を見て、「くそ、何てこった」と毒づいた。マドカというのはこのアパートに住む最古参で、年齢不詳のスペイン人老女だ。長く占い師をやっていたらしく、様々な事を言い当てるが、特に天気に関しては百発百中の精度を誇るのだ。

マドガを見ると、いつかルーブルで見たゴヤのエッチングに出てくる箒に乗った魔女(ブルッハ)を思い出す。本人は「あたしゃしがない占い師さ」と言っているが、垂れて色の抜けた灰色の瞳の中には、得体の知れない強い光があって、エマニュエルは、きっとこの婆さんは魔女の末裔に違いないと思って密かに恐れていた。

ともかく、あの婆さんがいうならと、エマニュエルは朝食を急いでかっくらって家を出た。

だが、結局、家と工房の中間地点で雨は土砂降りに変わり、濡れ鼠の程で工房に飛び込んだ。マルセルが目を向いて驚いて、「惜しかったですね」と、にっと笑ってタオルを投げてよこした。

「全然惜しくないよ、ありがとさん」睨みながら笑って返すとすぐさま作業着に着替えた。濡れた服は夕方までに乾くだろうか?

新しい仕事の始まり

今日から新しい仕事だ。親方のモローに事務室へ呼ばれ、話を聞いた。

親方の名はアントワーヌ・モロー。15才で故郷のクレルモン=フェランを飛び出し、パリの印刷工房クルギャ工房(バスティーユ)で見習いとなる。30才の時にクルギャ工房が経済的破綻で廃業した際、自ら独立を決意。

クルギャのプレス機3台、石版大中小合わせて20枚、各種設備を破格の値段で譲り受け、1870年、自らの工房「la maison noir(黒い家)」をモンマルトルに開設。以降20年、借金返済と高い税に苦しみながらも維持を続けてきた、不屈の精神を持つ50男だ。

今回の依頼は近所の出版社「近代文化社(Société de la Culture Moderne)」から。児童向け教本『世界の国々(Les Pays du Monde)』で、世界の国の風景と民族衣装を着た人々の挿絵、簡単な説明文を掲載。全52ページ(A5サイズ)、二色刷り(黒+赤)。

部数は500部。出版費用を抑えるため、出版社が倉庫に抱えていたラグペーパーを活用しようという試みらしい。販売価格は1冊3フラン程度。印刷代は安く、儲けは薄い。

親方は帳簿を叩きながらボヤく。「材料費と人件費を引いて、利益は350フラン。手間の割に金にならん!」 近代文化社とは古い付き合いなので断れないらしい。

親方は「1か月でやれ」というが、流石に無茶だ。エマニュエルが「マルセルの教育にいい機会だ。将来への投資と考えましょう」と説得し、なんとか1か月半(45日)に延ばした。

仕事は5人で行う。エマニュエル、同僚のベルトランとフィリップ、元セーヌ川の運搬船員で石版研磨専門のピエール、見習いのマルセルだ。他の工員は劇場ポスターの仕事をしており、人手の追加は難しいが、刷版時に応援を回してもらえることになった。

工房の匂いと段取り

工房は狭く、インクと湿った紙の匂いが充満している。奥の棚に20数枚の石版が積まれ、作業の準備を待っている。木製プレス機3台、鋳物製2台。高窓からは曇天の光が差し、色の確認がしやすくなっている。

中央の大テーブルにチームを集め、出版社の版下と挿絵を確認しながら割り振りを決める。1石版で4ページ(2国分)を面付け。10枚の石版をローテーションしながら使用し、全体で26版。印刷枚数は13,000枚+試刷り80枚。

予算が厳しいため、転写方法は薄紙とグリースペンシルを使用した安価な方式にする。フィリップはこの技術に長けており、マルセルに教えるには良い機会だ。

今日の作業:面付け設計。ベルトランには説明文の組版、フィリップとマルセルには薄紙転写の準備、ピエールには石版の研磨を任せる。

雨の工房

ピエールの研磨音がザリザリと響き、大粒の雨と遠くの雷鳴が混じる。エマニュエルは面付けに集中するが、稲光に顔をしかめる。

夕方、雨が上がり、今日の作業は終了。マルセルは濡れた薄紙の扱いに苦戦したが、勘は悪くない。

「チキショウ、明日こそ上手くやってやりますよ!」とマルセルが言うと、フィリップが「ガキ、焦るな。破るなよ」と笑う。

服はまだ湿っぽく、着心地が悪い。エマニュエルは舌打ちしながら帰路についた。工房のインクの匂いとマルセルの気合が、頭に残っていた。

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