2025年5月10日土曜日

小鼠の帽子とマルセル少年

石版工エマニュエルのある日

今日もいい天気だ。今日はブルンヌ通りに新たに開店するパン屋の小版チラシの版下を仕上げる日。大体描き終わっているので、スムーズに仕事が進むはずだ。

ジャンヌのうまい朝食とコーヒーを腹に収めながら、末娘のマリーが「お姉ちゃんみたいな帽子が必要な理由」を力説している。「あなたには赤いリボンのがあるでしょ」とジャンヌがいさめると、マリーは「もうハイスベルドさんちのネズミみたいに毛羽立ってるし、雨の日にチーズみたいな匂いがするから嫌だ」と反論。ブロンディンが「そんなに匂わないわよ、せいぜい小鼠よ」と擁護するも、「小鼠の帽子は嫌だ!」とマリーは怒り、ジャンヌが「じゃあ今度、アマンディンヌさんの店に見に行こう」と落ち着かせた。

ブロンディンが「あれ、ママの叔母さんからもらったんでしょ? 下手すればルイの王様の時代の帽子じゃない?」と笑うと、ジャンヌは「そんなに古くはないわよ、せいぜいナポレオンの時代よ」ととぼけて、皆で笑いあった。

ちなみに、先週マリーが欲しがった時も、近所の変人絵描きヤロスラフ・ハイスベルド氏が「これは我が故郷で祝祭に使われる伝統の人形だ」と言って、まるで呪いの儀式用のようなぼろぼろの人形を差し出してきたという。「あれを飾るくらいなら帽子を10個我慢するわ」とマリーが本気で震えたというのも、まだ皆の記憶に新しい。

さて、工房に着くと、見習いのマルセルが忙しなく掃除していた。「おはようございます、ヴェルレーヌさん」と元気に挨拶する15歳の少年に、「ちゃんと食べてるか?そんな細腕じゃあ石板を触らせてもらえんぞ」とエマニュエルが半分冗談で言うと、「じゃあ親方にもっと給金あげてって言ってくださいよ」とマルセル。エマニュエルは笑いながら「もう少し動きが良くなったらな」と返すと、マルセルは「俺、頑張って世界中の版を湿らせますよ!」とスポンジを握りしめて意気込んだ。

マルセルはもともとエマニュエルの近所に住む悪ガキだったが、ある日、壁の落書きから絵の才能を見抜かれ、版画工になるよう導かれた少年だ。今ではすっかり工房の一員で、絵も好き、体もよく動くので皆に可愛がられている。

だが午後、彼は油断して石板の角を欠かしてしまう。親方の雷が落ち、当面の昇給は見送りとなり、マルセルは意気消沈。エマニュエルは「まあ、元気を出せ」と肩を叩いて、ふたりで家路についた。

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