2025年5月11日日曜日

パン屋のイラストと、画家になれなかった男

パン屋の娘と、画家になれなかった男

パン屋のイラストと、画家になれなかった男

今日は、工房にパン屋の主人が訪ねてきた。
先日納品した広告の出来がよくて、客がどっと押し寄せて助かった、と。
手には焼きたてのパンの包み。親方も、思わず顔を綻ばせていた。

親方は、有名な工房で長く修行を積み、四十歳で独立した職人だ。
根は善良な人なのだが、経営の苦しさからいつも少しイライラしている。
自身も高いリトグラフの技術をもっているが、エマニュエルの腕は密かに高く評価している。
だが、褒めすぎると調子に乗って他へ行ってしまうのでは、と不安があり、なかなか素直には褒めない。

「この広告に描かれてた、パンを抱えてる女の子の絵が評判でね」
パン屋の主人は笑って言った。
「中には切り抜いて額に入れて飾った客までいたよ」
「これ、誰が描いたんだい?」

親方がエマニュエルを紹介した。
「こいつだよ。うちのエース職人さ」
パン屋は目を丸くして、

「ギュスターヴ・ドレが描いたのかと思ったよ!」

エマニュエルは照れたように笑って、

「よくあるイラストですよ」

と謙遜した。だが、ドレを心から尊敬している彼にとって、その言葉は胸に響いた。

そこへ、マルセルが余計な一言を差し挟む。

「俺も思いました。ヴェルレーヌさんって、何でこんな所にいるんですか?」

親方の眉がぴくりと跳ねたが、客の手前、怒鳴らずに済ませた。
「マルセル、お茶を淹れてこい」
厨房を指さしながら静かに言う。

パン屋は苦笑しつつ、親方の肩を軽く叩いた。

「いい従業員がいて羨ましいよ。大事にしなよ」
「分かっとるよ」

親方は照れくさそうに笑いながら、エマニュエルの肩をぽんと叩いた。


エマニュエルは、小さい頃から絵が得意だった。
本当は画家を志して、市の画塾にも通っていた。
けれど、ジャンヌと出会い、ブロンディンが生まれたとき——
彼は絵か家族かを選ぶことになって、迷わず家族を選んだ。

その選択に後悔はない。けれど、心の奥に燃え残った美術への憧れは、時おりマグマのように噴き出してしまう。
今回のように、ただのパン屋の広告であっても。

画家の性、というものだろう。


帰り道、エマニュエルは言いようのない幸福に包まれていた。
自分の絵が、誰かの心を動かしたという事実。
胸の奥から湧き上がる衝動に、いてもたってもいられない。
この気持ちを紙に、いや、キャンバスに叩きつけたい。
すべてを忘れ、捨て去って描き続ければ、いつか偉大な画家になれるのだろうか——

そんな煩悶を抱えながら、彼は我が家のアパートの窓の灯りを見上げる。
あの優しい光が、彼を現実に引き戻した。

「いや、これでいいんだ。俺には、最高の家族がいる」

そう呟いて笑う。

通りに漂う、それぞれの家の夕餉の匂い。
小さな幸福が溶け込んだ空気に、エマニュエルの足取りは、少し軽くなった。

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