2025年10月26日日曜日

リソグラフと言う名の文化窃盗的行為

リソグラフという名の文化的窃盗 — 石版画の名を借りた印刷機の影

リソグラフという名の文化的窃盗 — 石版画の名を借りた印刷機の影

「リトグラフ(Lithograph)」と「リソグラフ(RISOgraph)」——この二つの言葉を混同している人は、意外に多い。どちらも印刷に関わる用語だが、その本質はまったく異なる。それは単なる言葉の似かよいではなく、文化的な借用=文化の窃盗に近い現象でもある。

石から始まった「リトグラフ」

リトグラフの「litho」はギリシャ語で「石」を意味する。つまりリトグラフとは「石版画」──18世紀末にアロイス・ゼネフェルダー(Alois Senefelder)によって発明された、石灰石を使った化学的平版印刷技術である。

この技術は、19世紀から20世紀にかけて芸術表現の革命を起こした。トゥールーズ=ロートレック、ピカソ、ミロ、シャガール──数多くの画家たちが石の上に描き、そこにインクを通して版画の詩を生み出した。リトグラフは、芸術の物質的記憶として200年以上の歴史を持つ。

「理想」から生まれたリソグラフ

一方、「リソグラフ」は日本の理想科学工業が1980年代に開発した孔版印刷機(デジタル・シルクスクリーン)である。仕組みは、感熱式のマスター(原紙)に細かな穴を開け、インクを通して紙に転写するというもの。つまり、原理的にはシルクスクリーン印刷やガリ版の延長線上にある。

「リソグラフ(RISOgraph)」という名称は、「理想科学(RISO)」の社名からとった造語であり、印刷の“graph”を付け足しただけのものだ。だが、この語感が「lithograph」と非常に近く、しかも「リソ=litho」とも読めてしまうため、結果的にリトグラフとの混同を招いた

名がもたらした印刷史の混乱

問題は、こうした混同が単なる誤解の範疇にとどまらず、印刷史そのものの認識を曖昧にしてしまっていることだ。多くの人が「リソグラフ印刷」を「リトグラフ」と勘違いし、さらには「シルクスクリーン印刷」とも混同して説明する場面がある。

その結果、リトグラフが培ってきた技術史や文化的重みが、「デジタル印刷の一種」程度に矮小化されてしまう。言葉の重みが、企業のブランド戦略に軽々と奪われてしまったのだ。

名称が持つ倫理と責任

もちろん、理想科学工業に悪意があったわけではないだろう。むしろ「理想」という社名にちなんだ発明として誇るべき技術革新でもある。しかしながら、言葉には文化の記憶が宿る。そして、「リソグラフ」という名称は、結果的に「リトグラフ」の語源的・文化的領域を侵食してしまった。

それは、印刷史の上に新しい家を建てながら、その地層に刻まれた“石の記憶”を見ようとしなかったということだ。

今からでも遅くはない——改名という誠実

もし理想科学が自らのブランドと技術に真摯であるなら、「RISOgraph」という名を改め、「RISOprint」や「RISOstencil」など、孔版印刷の本質を正直に表す新たな名称へと歩み直してもよいのではないか。

リトグラフは、石と水と油の微妙な均衡の上に築かれた芸術。リソグラフは、デジタルとインクのリズムが作り出す現代の孔版芸術。両者が正しく区別され、互いの文化が敬意をもって語られることこそ、印刷文化の未来にとっての「理想」である。

結語

「リソグラフ」は便利な機械であり、独自の美学を持つ。しかしその名が「リトグラフ」という200年の言葉の上に安易に築かれたことを、私たちは忘れてはならない。言葉は文化の骨格であり、技術の系譜を守る鍵である。

リソグラフよ、そろそろその石から降りる時だ。

2025年10月14日火曜日

リトクレヨンが高すぎるのでAIに聞いて自作してみっか。

自作リトクレヨン:意義と制作方法(工房向け実践ガイド)
工房ノート・素材開発

自作リトクレヨン:意義と制作方法(工房向け実践ガイド)

アルミホイル転写など非吸収面に最適化した自作レシピと実験ノート付き。安全・低コストで試せる手順を掲載。

導入 — なぜ自作するのか(意義)

リトグラフクレヨンは伝統的に海外製品に依存してきた専門画材です。工房で自作する意義は大きく分けて三つあります:

  1. 技術継承と表現の自由性:配合を自分でコントロールすることで、版と支持体に合わせた最適な描き味を得られます。
  2. 経済性と供給安定性:輸入遅延や欠品に左右されず、小ロットで試作し改良できます。
  3. 新技法の創出:アルミ、ガラス、フィルムなど非吸収面に特化した配合で、新しい版表現(例:アルミリトグラフ)を開拓できます。

安全上の注意(必読)

重要: 自作には加熱作業・粉体扱い・可燃性物質の使用が伴います。必ず換気の良い場所で行い、マスク、耐熱手袋、ゴーグルを着用してください。タール系原料は発がん性リスクがあるため、可能なら松ヤニや食品グレードの代替品を用いることを推奨します。

材料と費用(家庭向け・目安)

材料役割購入先・参考価格
蜜蝋(ビーズワックス)滑り・粘りの基材Amazon / 東急ハンズ — 約1,000円 / 100g
モンタンワックス(またはパラフィン)硬度調整画材通販 — 約800円 / 100g
松ヤニ(コロホニウム)密着性(タール代替)楽天 / Amazon — 約700円 / 100g
カーボンブラック(顔料)着色・トーン画材店 — 約500円 / 20g
石鹸(オリーブ石鹸など)乳化剤・転写性調整ドラッグストア — 約200円 / 個
ストーンパウダー(軽石粉や酸化アルミ微粉)アルミ面向けの粒子添加工芸材料店 / ネット — 約800円 / 100g

上記は参考価格です。初回は小ロット(10本分)を想定すると1本あたりおよそ50〜150円で作れます(材料と成形法による)。

基本的なレシピ(試作 10本分・目安)

下は家庭で試しやすい「軟質 / 中間 / 硬質」の3種の配合例。温度は80〜90℃の湯煎で溶かし、ストローやシリコン型で成形します。

軟質タイプ(アルミで深めに写る)

蜜蝋:20g

松ヤニ:15g 石鹸:2g オリーブ油:1g カーボン:0.5〜1g 混合→湯煎→型入れ→冷却

中間タイプ(汎用)

蜜蝋:15g

モンタンワックス:10g 松ヤニ:10g 石鹸:2g カーボン:1g

硬質タイプ(細線向け・アルミ向けは微粉添加推奨)

モンタンワックス:20g

蜜蝋:10g 松ヤニ:5g 石鹸:1〜2g カーボン:1g ストーンパウダー:1〜2g(アルミ特化時)

冷却は室温でもよいが、急冷はひび割れの原因になる。固化後は紙で巻いて保護すると折れにくくなる。

作り方(ステップ・詳細)

  1. 下準備:換気、保護具、秤(0.1g単位推奨)、耐熱容器、シリンジ或いはスポイト、ストロー/シリコンモールドを用意。
  2. 溶解:耐熱容器で蜜蝋等を湯煎で徐々に溶かす(目標 80〜90℃)。直接火にかけない。
  3. 混合:顔料→松ヤニ→石鹸の順で入れ、よく攪拌する。均一化のため3ロールまたはゴムヘラでよく練る。
  4. 成形:シリンジでストローに充填。垂直に立てて冷却するとまっすぐ固まる。シリコンモールドも可。
  5. 冷却・乾燥:室温で1時間、完全硬化させる。急冷は避ける。成形後、表面をネルや柔らかい布で軽く拭く(油膜調整)。
  6. 仕上げ:ストローを縦に切って抜き、紙巻きにする。必要なら紙ヤスリで先端を整える。

アルミホイル特化の追加テクニック

  • ストーンパウダー(軽石粉、酸化アルミ微粉)を1〜3%程度混ぜると、アルミ面での咬みが良くなる。
  • 描いた直後に柔らかいネルで軽く表面を撫でると油膜が薄くなり転写が安定する。
  • 転写は強圧より軽擦(kiss pressure)を複数回行う方が滲みを抑えられる。

試作ノート(実験テンプレート)

以下のテンプレートをコピペして実験記録に使ってください。


日付: レシピ名: 配合(g): ・蜜蝋: ・モンタンワックス: ・松ヤニ: ・石鹸: ・顔料: ・微粉(ストーン): 湯煎温度: 成形方法: 冷却法: 描き味(1-10): 転写性(1-10): 滲み度(1-10): 備考(アルミの下処理・転圧回数等): 結果: 改良点: 

よくあるトラブルと対処

現象原因(推定)対処
線がにじむ油分過多・転圧が強すぎる冷却して硬度を上げる、石粉を増やす、擦り圧を下げる
線が途切れる油分不足・顔料の密度不足松ヤニやオイルを少量追加、蜜蝋を減らす
芯が割れる急冷・ワックス比が高い徐冷する、紙巻きで強度を確保
表面がベタつくオイル過多・仕上げ不足表面を布で拭く、ワックス比を増やす

まとめと今後の展望

自作リトクレヨンは「材料科学」と「職人技」の融合です。小ロットでの試作を繰り返すことで、アルミやその他の非吸収支持体に最適化された新しい表現領域が開けます。工房を持つあなたなら、試作・教育・販売まで含めたプロジェクト化が現実的です。

この記事は実験的ノウハウを共有する目的で作成されています。商用化する際は安全性と規制(材料の MSDS)を必ず確認してください。

作成:工房ノート(あなたの屋号をここに) | カテゴリ:画材レシピ・版画テクニック

編集・転載について:無断転載はご遠慮ください。改変や商用利用をご希望の場合はお問い合わせください。

2025年10月6日月曜日

紙段漸圧とは|リトグラフプレス改造による新しい印圧調整法

紙段漸圧とは|リトグラフプレス改造による新しい印圧調整法

紙段漸圧とは|リトグラフプレス改造による新しい印圧調整法

紙段漸圧(しだんぜんあつ)とは、リトグラフやエッチングなどの手動プレス機で、紙厚を段階的に配置することで印圧を徐々に高める独自の技法です。これは従来の「トグルレバーによる瞬間的な圧力印加」に対して、より滑らかで制御しやすい圧力変化を実現します。

発想の背景

手動式プレス機では、印圧の立ち上がりが急であるため、版面へのダメージやムラが生じやすいという課題があります。
これを解決するために考案されたのが、「紙段漸圧」。
印刷ベッドの手前側(印画部の余白側)に、1mm〜1cm刻みで紙を階段状に10枚程度重ねることで、ベッドが進むにつれて徐々に印圧が高まる構造を作ります。

「最初は軽く、徐々に重く」──機械的には単純ですが、印刷結果には繊細な差が生まれます。

紙段漸圧の理論的説明

プレスベッドが進行する方向に沿って紙厚が増していくと、トグルレバーの角度変化と紙厚変化が加算的に働き、印圧が時間的にも空間的にも滑らかに上昇します。
これにより、以下のような効果が得られます。

  • 印画部に入る前に「予備圧」がかかり、紙と版が自然に馴染む
  • インク転写のムラが減少し、トーンが安定する
  • トグル操作に必要な力が分散し、作業疲労が大幅に軽減される
  • 機械への負担が減り、ギアや軸の寿命が延びる

通常法との違い

従来の方式では、トグルレバーを倒す瞬間に一気に圧力がかかるため、印画部の入りと抜けで圧ムラが発生しやすく、精密な印刷では難点となっていました。
紙段漸圧では、印圧の導入角が緩やかになるため、版面への衝撃がなく、柔らかい印象のプリントが得られます。

紙段漸圧の作り方(簡易版)

  1. ベッド上のチンパン(版の下敷き)より手前10cmほどに、A4上質紙を10枚用意。
  2. 1cmずつ奥にずらして重ね、階段状のスロープを作る。
  3. その上に版・紙をセットし、通常通りハンドルで圧を加える。
  4. トグルを倒してベッドを送ると、徐々に印圧が高まり、スムーズな圧が得られる。

環境的・構造的意義

この方法は、機械構造を変えることなく圧制御を改善できるサステナブル・ユーティリティ(持続的有用性)の好例です。
旧式のリトグラフプレスや手動プレス機が時代に埋もれず、新しい価値を持って再生する道を示しています。

キーワードで探す人へ

リトグラフプレス 改造 / 手動プレス 印圧調整 / 紙段漸圧とは / 段階的印圧 / 手動印刷 機械改良

© 2025 Daichan Hamanaka — 紙段漸圧(Shidan Zen’atsu)技法研究ノート

2025年5月25日日曜日

ギュスターヴ・ドレはなぜ再現しがたいのか?

ギュスターヴ・ドレはなぜ再現しがたいのか?

― 機械学習では到達しえない“人間の乱数” ―

19世紀の幻想挿絵画家ギュスターヴ・ドレ(Gustave Doré)の作品は、技術や構図の模倣を超えて、「何か得体の知れない気配」を感じさせる。そこには、AIや現代のデジタルツールでは再現困難な“人間由来の乱数”が刻み込まれている。

セオリーを無視して生まれた強度

ドレは美術学校に正式に通ったわけではない。独学で絵を学び、10代で出版社に売り込んで以降、神話・聖書・地獄・革命・戦争といったテーマをひたすら描き続けた。そのため、彼の構図や線には、アカデミズムの「正解」から逸脱した奇妙な独自性がある。

  • 過剰とも言える密度
  • 異常な遠近感
  • 重力を否定するような群像配置

これは、通常のデッサン教育では矯正される部分だ。しかしドレはむしろ、それらを意図的に制御できる“逸脱”として武器化している。

機械学習が模倣できるもの、できないもの

現代の画像生成AIは、ドレ風の絵をそれらしく描くことは可能だ。陰影、構図、線の細かさは、学習データが十分にあれば模倣できる。

だが――その絵は、なぜか「ドレそのもの」ではない。

理由は明確だ。AIは確率分布の中から最も“ドレっぽい”選択肢を選ぶことは得意でも、ドレのように確率を裏切る乱数的決定を“生きた意図”として織り込むことができないからだ。

脳構造とトラウマという乱数発生器

ドレの絵に刻まれているもの。それは、視覚的な技術や様式だけでなく、彼自身の脳構造、発達過程、トラウマ、性格傾向、時代背景といった複雑な要素が交錯して生まれた「人間的ゆらぎ」だ。

  • 子ども時代の孤独
  • フランス第二帝政下の社会不安
  • 頻繁に描かれる死・天罰・贖罪といったモチーフ

これらはランダムではなく、確率論では表現できない“意味のある乱数”として絵の中に埋め込まれている。

ドレの「非線形的創作」の深淵

ドレの描線は、対象の輪郭をなぞるのではなく、内部から震えるように発生している。これは観察と模倣ではなく、彼の内部にあるイメージ生成エンジンから出力されたものだ。情報の蓄積→処理→出力、という直線的な学習過程ではなく、

「ある日、急に思い浮かぶ図像を一気に吐き出す」

ような非線形の創作パターンを持っていたと思われる。これは現在のAIには再現できない生成プロセスだ。


結論:「ドレ風」ではない、「ドレ本人」にしかできない

ギュスターヴ・ドレは、技術だけでなく精神や内的衝動の全体から絵を生み出していた。その乱数的・非線形的な思考と美的判断の連鎖は、模倣では届かない“人間存在の固有性”そのものだ。

彼の描く世界に宿るあの緊張感、どこかヒビの入った空気、痛みに満ちた光と影――それらは、計算ではなく、宿命に近い“ズレ”の上に成り立っている。

だから、我々は「ドレ風」をどれだけ再現しても、本物のドレには永遠に届かないのだ。


※本記事は、アーティストの創造性とAI技術の限界に関心のある読者を想定しています。ご自身の制作や鑑賞の視点に重ねて読んでいただければ幸いです。

2025年5月22日木曜日

リトグラフ写真製版技術の歴史 ― 光と石が織りなす印刷の革新

リトグラフ写真製版技術の歴史 ― 光と石が織りなす印刷の革新

写真石版アニメーション
PHOTO
露光 → 現像 → 印刷:19世紀の写真石版印刷をCSSで表現

リトグラフ(石版画)は18世紀末に誕生し、19世紀にかけて印刷と芸術の世界に大きな革新をもたらしました。特に、19世紀後半から20世紀にかけて発展した「写真製版技術」の導入は、従来の手作業中心のリトグラフ制作を大きく変え、現代のオフセット印刷へとつながる橋渡しとなりました。今回は、このリトグラフと写真技術の融合がいかにして起こったのか、その歴史を辿ってみましょう。

1. 石の上に描く:リトグラフの誕生

リトグラフは1796年、ドイツのアロイス・ゼネフェルダーによって発明されました。彼は音楽の譜面を安価に印刷する手段を探しているうちに、石灰岩(リト)と油性インク、水の反発性を利用した印刷法を確立します。

この技法は、従来のエッチングや木版とは異なり、画家やイラストレーターが「直接描ける」版画として急速に広まりました。特に19世紀中葉には、ドーミエやトゥールーズ=ロートレックなどの画家がこの技法を愛用し、表現の自由度の高い媒体として花開きます。

2. 写真との出会い:製版技術の進化

19世紀半ば、ダゲレオタイプや湿板写真などの写真技術が誕生すると、印刷業界は写真を印刷物に転写する方法の開発に乗り出します。

1850〜60年代、コロタイプやアルベュム印刷などの技法が試みられる中で、リトグラフとの融合も始まりました。これが「フォトリトグラフ」や「写真石版(photolithography)」と呼ばれる技術です。

3. フォトリトグラフの技術的仕組み

写真石版では、感光性の物質(当初はクロム酸塩にゼラチンを加えたもの)を石版に塗布し、ネガフィルムを密着させて露光します。光が当たった部分は硬化し、非露光部は洗い落とされることで、画像の明暗を版に転写できる仕組みです。

この技術は、細かなトーンや写真のグラデーションを石版で再現することを可能にし、新聞や広告、地図製作などの分野で広く応用されました。

4. オフセット印刷の登場とリトグラフ写真製版の終焉

20世紀初頭、ゴムローラーを使った「オフセット印刷」が誕生すると、写真製版はさらに洗練されていきます。金属板(特にアルミ)への転写が主流となり、石版は次第に姿を消していきました。

しかし、写真製版技術としてのリトグラフの遺産は、そのままオフセット印刷へと受け継がれました。現代でも、手刷りのアート印刷や一部の版画工房では、写真と石版の融合が芸術的に継続されています。

5. 芸術と産業の間に残る「写真リトグラフ」

今日、写真リトグラフは主にアートの世界で再評価されています。石版を使った写真のプリントは、手作業による味わいと独自の階調を持ち、現代の作家や版画工房においても試みられています。

一方で、産業的には電子工学や半導体製造において「フォトリソグラフィー(photolithography)」という名前で進化し続けています。ここでも、光と化学反応によって微細なパターンを転写するという基本原理は、19世紀の石版写真製版と共通しているのです。

リトグラフ写真製版技術の年表

年代 出来事
1796年 アロイス・ゼネフェルダー、リトグラフ(石版印刷)を発明(ドイツ)
1820年代 フランスで新聞・ポスター印刷に石版が普及
1839年 ダゲレオタイプ(初の実用写真技術)発表
1850〜60年代 写真画像を印刷に転用しようとする技術開発が始まる
1860年代 感光性ゼラチンを用いたフォトリトグラフ(写真石版)が登場
1875年 オフセット印刷の前身技術がアメリカで試され始める
1890年代 写真製版技術が広く普及(フォトグラビュール、コロタイプなど)
1904年 アメリカでオフセット印刷機が実用化
1920〜30年代 商業印刷が金属オフセットに移行、リトグラフは主に芸術用途へ
1960年代以降 写真リトグラフが芸術分野で再評価され始める
現代 版画工房などで写真リトグラフの伝統技法が継承されている

まとめ

リトグラフ写真製版の歴史は、石と光と化学反応の三重奏によって築かれた、技術と芸術の交差点といえるでしょう。手作業と機械、芸術と産業、感性と科学が交差したこの技術史は、現代の印刷文化や電子技術の源流として、今も私たちの身近に息づいています。

2025年5月19日月曜日

物理的生存率としての版画美術の生存戦略

物理的生存率としての版画美術の生存戦略

― 分霊箱としての作品生命と、美術遺産に刻まれた呪的拘束 ―

美術は、単に「美しいもの」の創出ではない。とりわけ版画は、その複製可能性において、他の美術ジャンルとは異なる「生存戦略」を持つ。ここで言う「生存」とは、物理的な現世的延命のことだ。そして、版画が物質としてこの世界にとどまり続けるということ自体が、人類文化に対するある種の呪術的拘束として作用していることを、私たちはもっと意識的に捉えてよいのではないか。

■ 分霊箱としての版画

J.K.ローリングの『ハリー・ポッター』に登場する「分霊箱(Horcrux)」は、魂の一部を他の物体に隠し入れることで不死を目指す魔術である。この概念は、案外と版画芸術に通底する思想である。作者の意図、手技、集中、無意識、嗜虐と愉悦…それらが刻印され、転写され、複製される版画作品は、まさに作者の「一部」であり、世界に分配された霊的断片に他ならない。

1点ものの油彩や彫刻と異なり、版画は数十、数百単位で頒布される。その分、作者の存在確証(エクリチュールのような)は希薄になるかもしれない。だが、皮肉にもそれこそが、作者をこの世界にしぶとく長く結びつける呪術として機能するのだ。

■ 複製がもたらす「在り続ける力」

物理的に分散された作品群は、時に美術館の奥底に、時に個人の書斎の壁に、またある時は蚤の市の箱の底にある。だがそれらはいずれも「同一の霊的コード」を共有している複体(アグリゲート)であり、個々に作者の霊的意志の「触媒」となる。

それゆえ、どれか一枚でも残っている限り、作者は「ここにいた」という存在証明を世界に対して行い続ける。この点において、版画は、時の淘汰に抗う美術のゾンビ化装置とも言える。

■ 呪物化する美術遺産

美術館やコレクションに所蔵された作品は、「文化的資産」であると同時に、我々に対する行動制約の発生源でもある。

たとえば「失われると困る」「守らねばならない」「解釈し続けなければならない」といった感情は、作品が我々に与える無意識の呪術的拘束そのものだ。作者が死してなお、その残した版画作品は我々に記憶の強制と反応の継続を課す。「忘れてはならない」「敬意を払え」「破壊してはならぬ」と。

これが、現代においてもなお「美術館」という制度が機能し続ける理由の一つだ。そこは、霊的な記憶を冷蔵保存する墓所であると同時に、人類の行動を律する呪物の保管所でもある。

■ 最後に:美術とは、文化に仕込まれた「まじない」である

版画は、芸術表現である以前に、人類の生存本能と結びついた物理的延命の装置である。そこに刻まれた線、色、圧力、余白、刷り損じすらも、すべてが「在ること」の証明として機能する。

このようにして版画作品は、ただ壁に飾られるだけでなく、人類社会に魔術的影響を及ぼす装置=分霊箱として存在し続ける。そこには祝福と呪詛、愛と執着、希望と拘束が、ひとしく込められている。


追記(あるいは注意書きとして)

本記事は、版画に関する個人的な観念的・呪術的視点から構成された思索的エッセイであり、科学的あるいは歴史学的な厳密さを主旨としていない。だが、作者自身の実作の現場においては、こうした「まじないとしての美術」の視点が、不可欠な創作指針となっていることをここに記しておく。

2025年5月15日木曜日

ブルッハ(魔女)の天気予報と新しい仕事

ブルッハ(魔女)の天気予報と新しい仕事

目覚めると、窓の外の瓦をポツポツと雫が叩いている。雨音が聞こえない所を見ると大して降ってもいないようだと思ったが、出勤するのが億劫になるのは同じだ。エマニュエルは、何故か昔から濡れるのが嫌いだった。

ジャンヌは既に起きて、朝食の準備をしているようで、昨夜のスープを温め直している事が目では無く鼻でわかった。ベットから出たエマニュエルは、春とは思えぬ程の肌寒さに、眉を顰めながら素早く服をきた。

「おはよう。今日は早めに出たほうがいいわよ。昨日マドガさんが今日は大荒れになるって言ってたから」とジャンヌが、バゲットを切り分けながら言った。

エマニュエルは窓の外を見て、遠くにある重たげなブルーグレーの雲を見て、「くそ、何てこった」と毒づいた。マドカというのはこのアパートに住む最古参で、年齢不詳のスペイン人老女だ。長く占い師をやっていたらしく、様々な事を言い当てるが、特に天気に関しては百発百中の精度を誇るのだ。

マドガを見ると、いつかルーブルで見たゴヤのエッチングに出てくる箒に乗った魔女(ブルッハ)を思い出す。本人は「あたしゃしがない占い師さ」と言っているが、垂れて色の抜けた灰色の瞳の中には、得体の知れない強い光があって、エマニュエルは、きっとこの婆さんは魔女の末裔に違いないと思って密かに恐れていた。

ともかく、あの婆さんがいうならと、エマニュエルは朝食を急いでかっくらって家を出た。

だが、結局、家と工房の中間地点で雨は土砂降りに変わり、濡れ鼠の程で工房に飛び込んだ。マルセルが目を向いて驚いて、「惜しかったですね」と、にっと笑ってタオルを投げてよこした。

「全然惜しくないよ、ありがとさん」睨みながら笑って返すとすぐさま作業着に着替えた。濡れた服は夕方までに乾くだろうか?

新しい仕事の始まり

今日から新しい仕事だ。親方のモローに事務室へ呼ばれ、話を聞いた。

親方の名はアントワーヌ・モロー。15才で故郷のクレルモン=フェランを飛び出し、パリの印刷工房クルギャ工房(バスティーユ)で見習いとなる。30才の時にクルギャ工房が経済的破綻で廃業した際、自ら独立を決意。

クルギャのプレス機3台、石版大中小合わせて20枚、各種設備を破格の値段で譲り受け、1870年、自らの工房「la maison noir(黒い家)」をモンマルトルに開設。以降20年、借金返済と高い税に苦しみながらも維持を続けてきた、不屈の精神を持つ50男だ。

今回の依頼は近所の出版社「近代文化社(Société de la Culture Moderne)」から。児童向け教本『世界の国々(Les Pays du Monde)』で、世界の国の風景と民族衣装を着た人々の挿絵、簡単な説明文を掲載。全52ページ(A5サイズ)、二色刷り(黒+赤)。

部数は500部。出版費用を抑えるため、出版社が倉庫に抱えていたラグペーパーを活用しようという試みらしい。販売価格は1冊3フラン程度。印刷代は安く、儲けは薄い。

親方は帳簿を叩きながらボヤく。「材料費と人件費を引いて、利益は350フラン。手間の割に金にならん!」 近代文化社とは古い付き合いなので断れないらしい。

親方は「1か月でやれ」というが、流石に無茶だ。エマニュエルが「マルセルの教育にいい機会だ。将来への投資と考えましょう」と説得し、なんとか1か月半(45日)に延ばした。

仕事は5人で行う。エマニュエル、同僚のベルトランとフィリップ、元セーヌ川の運搬船員で石版研磨専門のピエール、見習いのマルセルだ。他の工員は劇場ポスターの仕事をしており、人手の追加は難しいが、刷版時に応援を回してもらえることになった。

工房の匂いと段取り

工房は狭く、インクと湿った紙の匂いが充満している。奥の棚に20数枚の石版が積まれ、作業の準備を待っている。木製プレス機3台、鋳物製2台。高窓からは曇天の光が差し、色の確認がしやすくなっている。

中央の大テーブルにチームを集め、出版社の版下と挿絵を確認しながら割り振りを決める。1石版で4ページ(2国分)を面付け。10枚の石版をローテーションしながら使用し、全体で26版。印刷枚数は13,000枚+試刷り80枚。

予算が厳しいため、転写方法は薄紙とグリースペンシルを使用した安価な方式にする。フィリップはこの技術に長けており、マルセルに教えるには良い機会だ。

今日の作業:面付け設計。ベルトランには説明文の組版、フィリップとマルセルには薄紙転写の準備、ピエールには石版の研磨を任せる。

雨の工房

ピエールの研磨音がザリザリと響き、大粒の雨と遠くの雷鳴が混じる。エマニュエルは面付けに集中するが、稲光に顔をしかめる。

夕方、雨が上がり、今日の作業は終了。マルセルは濡れた薄紙の扱いに苦戦したが、勘は悪くない。

「チキショウ、明日こそ上手くやってやりますよ!」とマルセルが言うと、フィリップが「ガキ、焦るな。破るなよ」と笑う。

服はまだ湿っぽく、着心地が悪い。エマニュエルは舌打ちしながら帰路についた。工房のインクの匂いとマルセルの気合が、頭に残っていた。

2025年5月11日日曜日

トナー転写リトグラフ

レーザープリンタを使ったリトグラフ印刷の方法|パブリック・ドメイン作品で楽しむ

レーザープリンタを使ったリトグラフ印刷の方法|パブリックドメイン作品で楽しむ

はじめに

この記事では、パブリックドメインの絵画作品をもとに、レーザープリンタで出力した画像をアルミ板に転写し、一色刷りのリトグラフ作品を制作する方法をご紹介します。

使用する素材と準備

今回は、1800年代のオランダの画家 Alexandre Ver Huell の作品を使って印刷を行います。

Artvee というサイトから、著作権の切れた絵画を無料でダウンロードできます。A4サイズ程度の印刷には十分な解像度です。

画像の加工

  1. Artveeからダウンロードした画像を、Photoshopなどで開きます。
  2. 中間トーンが潰れないように、明るさ・コントラストを調整し、線と面をくっきりさせます。
  3. 完成したら、JPEGまたはPNGで保存します。

版下の作成

  1. Affinity Designer 2(またはIllustrator)でA4サイズのドキュメントを作成します。
  2. 保存した画像を配置し、必要であれば見当線(トンボ)を追加します。
  3. レーザープリンタで出力します(反転の必要はありません)。

アルミ転写と製版工程

  1. インクをローラーに準備し、スポンジやアラビアゴムも用意します。
  2. アルミホイルを水で湿らせ、プレス機の定盤に貼りつけます。
  3. 出力したコピー紙の裏側に有機溶剤を筆で塗り、トナーを浮かせます。
  4. 溶剤が揮発したら、印刷面をアルミに重ねて転写し、プレス機でゆっくり圧をかけます。
  5. コピー紙を剥がし、アラビアゴムを塗って親水面を作ります。

刷りと仕上げ

  1. 版を湿らせながら、インクをのせたローラーでインクをのせていきます。
  2. スポンジやスプレーで水を補いながら乾燥を防ぎます。
  3. 紙を置いて、プレス機で刷れば完成です。
  4. 必要があれば再度アラビアゴムを塗って版を保護し、繰り返し印刷も可能です。

よくある質問(FAQ)

Q. どのようなプリンタを使えばいいですか?

A. レーザープリンタを推奨しています。インクジェットプリンタではトナーが転写できません。

Q. 使用できる紙の種類は?

A. コピー用紙(普通紙)がベストです。厚紙や光沢紙は転写しにくくなります。

Q. 画像を反転する必要はありますか?

A. 今回の方法では反転せずに印刷してください。反転は不要です。

Q. ソフトは有料のものでないとダメですか?

A. PhotoshopやAffinity Designerが推奨ですが、無料ソフト(例:GIMP、Inkscape)でも対応可能です。

Q. どれくらい繰り返し刷れますか?

A. 転写状態や管理次第で、10枚前後の刷りが可能です。

この記事がリトグラフ制作の参考になれば幸いです。作品制作の楽しさを、ぜひご自宅でも広げてみてください。

パン屋のイラストと、画家になれなかった男

パン屋の娘と、画家になれなかった男

パン屋のイラストと、画家になれなかった男

今日は、工房にパン屋の主人が訪ねてきた。
先日納品した広告の出来がよくて、客がどっと押し寄せて助かった、と。
手には焼きたてのパンの包み。親方も、思わず顔を綻ばせていた。

親方は、有名な工房で長く修行を積み、四十歳で独立した職人だ。
根は善良な人なのだが、経営の苦しさからいつも少しイライラしている。
自身も高いリトグラフの技術をもっているが、エマニュエルの腕は密かに高く評価している。
だが、褒めすぎると調子に乗って他へ行ってしまうのでは、と不安があり、なかなか素直には褒めない。

「この広告に描かれてた、パンを抱えてる女の子の絵が評判でね」
パン屋の主人は笑って言った。
「中には切り抜いて額に入れて飾った客までいたよ」
「これ、誰が描いたんだい?」

親方がエマニュエルを紹介した。
「こいつだよ。うちのエース職人さ」
パン屋は目を丸くして、

「ギュスターヴ・ドレが描いたのかと思ったよ!」

エマニュエルは照れたように笑って、

「よくあるイラストですよ」

と謙遜した。だが、ドレを心から尊敬している彼にとって、その言葉は胸に響いた。

そこへ、マルセルが余計な一言を差し挟む。

「俺も思いました。ヴェルレーヌさんって、何でこんな所にいるんですか?」

親方の眉がぴくりと跳ねたが、客の手前、怒鳴らずに済ませた。
「マルセル、お茶を淹れてこい」
厨房を指さしながら静かに言う。

パン屋は苦笑しつつ、親方の肩を軽く叩いた。

「いい従業員がいて羨ましいよ。大事にしなよ」
「分かっとるよ」

親方は照れくさそうに笑いながら、エマニュエルの肩をぽんと叩いた。


エマニュエルは、小さい頃から絵が得意だった。
本当は画家を志して、市の画塾にも通っていた。
けれど、ジャンヌと出会い、ブロンディンが生まれたとき——
彼は絵か家族かを選ぶことになって、迷わず家族を選んだ。

その選択に後悔はない。けれど、心の奥に燃え残った美術への憧れは、時おりマグマのように噴き出してしまう。
今回のように、ただのパン屋の広告であっても。

画家の性、というものだろう。


帰り道、エマニュエルは言いようのない幸福に包まれていた。
自分の絵が、誰かの心を動かしたという事実。
胸の奥から湧き上がる衝動に、いてもたってもいられない。
この気持ちを紙に、いや、キャンバスに叩きつけたい。
すべてを忘れ、捨て去って描き続ければ、いつか偉大な画家になれるのだろうか——

そんな煩悶を抱えながら、彼は我が家のアパートの窓の灯りを見上げる。
あの優しい光が、彼を現実に引き戻した。

「いや、これでいいんだ。俺には、最高の家族がいる」

そう呟いて笑う。

通りに漂う、それぞれの家の夕餉の匂い。
小さな幸福が溶け込んだ空気に、エマニュエルの足取りは、少し軽くなった。

2025年5月10日土曜日

小鼠の帽子とマルセル少年

石版工エマニュエルのある日

今日もいい天気だ。今日はブルンヌ通りに新たに開店するパン屋の小版チラシの版下を仕上げる日。大体描き終わっているので、スムーズに仕事が進むはずだ。

ジャンヌのうまい朝食とコーヒーを腹に収めながら、末娘のマリーが「お姉ちゃんみたいな帽子が必要な理由」を力説している。「あなたには赤いリボンのがあるでしょ」とジャンヌがいさめると、マリーは「もうハイスベルドさんちのネズミみたいに毛羽立ってるし、雨の日にチーズみたいな匂いがするから嫌だ」と反論。ブロンディンが「そんなに匂わないわよ、せいぜい小鼠よ」と擁護するも、「小鼠の帽子は嫌だ!」とマリーは怒り、ジャンヌが「じゃあ今度、アマンディンヌさんの店に見に行こう」と落ち着かせた。

ブロンディンが「あれ、ママの叔母さんからもらったんでしょ? 下手すればルイの王様の時代の帽子じゃない?」と笑うと、ジャンヌは「そんなに古くはないわよ、せいぜいナポレオンの時代よ」ととぼけて、皆で笑いあった。

ちなみに、先週マリーが欲しがった時も、近所の変人絵描きヤロスラフ・ハイスベルド氏が「これは我が故郷で祝祭に使われる伝統の人形だ」と言って、まるで呪いの儀式用のようなぼろぼろの人形を差し出してきたという。「あれを飾るくらいなら帽子を10個我慢するわ」とマリーが本気で震えたというのも、まだ皆の記憶に新しい。

さて、工房に着くと、見習いのマルセルが忙しなく掃除していた。「おはようございます、ヴェルレーヌさん」と元気に挨拶する15歳の少年に、「ちゃんと食べてるか?そんな細腕じゃあ石板を触らせてもらえんぞ」とエマニュエルが半分冗談で言うと、「じゃあ親方にもっと給金あげてって言ってくださいよ」とマルセル。エマニュエルは笑いながら「もう少し動きが良くなったらな」と返すと、マルセルは「俺、頑張って世界中の版を湿らせますよ!」とスポンジを握りしめて意気込んだ。

マルセルはもともとエマニュエルの近所に住む悪ガキだったが、ある日、壁の落書きから絵の才能を見抜かれ、版画工になるよう導かれた少年だ。今ではすっかり工房の一員で、絵も好き、体もよく動くので皆に可愛がられている。

だが午後、彼は油断して石板の角を欠かしてしまう。親方の雷が落ち、当面の昇給は見送りとなり、マルセルは意気消沈。エマニュエルは「まあ、元気を出せ」と肩を叩いて、ふたりで家路についた。

2025年5月9日金曜日

休日の光の中で — 石版工エマニュエルの一日

休日の光の中で — 石版工エマニュエルの一日

休日の朝、エマニュエルはいつもより少しだけ遅く目を覚ました。
よく眠ったはずなのに、体の奥底には、まるでヘドロのように重く沈殿した疲れが残っている。もうひと眠りしたい気持ちに抗えずにいたところ、次女マリーがベッドに駆け寄ってきて、揺すぶるように囁いた。

「パパ、ピクニックに行く約束、覚えてる?」

「ああ、そうだったな」
と微笑み、彼はマリーの栗色の髪を優しく撫でて、ゆっくりと身を起こした。

昼、家族四人はセーヌの河岸へと出かけた。
長女ブロンディンと次女マリー、そして妻ジャンヌとともに、初夏のセーヌ川の岸辺で靴を脱ぎ、ひんやりと心地よい水に足を浸す。そよ風に揺れるポプラの葉が光を反射し、ゆるやかな波紋とともに穏やかな時が流れていた。

バゲットにはジャンヌ特製のパテをたっぷりと塗り、チーズ、トマト、ピクルスをそれぞれ好みにあわせて挟む。頬張るたび、家族の笑い声が弾け、セーヌのほとりに幸せが満ちた。

帰り道は少し回り道になるが、エマニュエルの希望でシャンゼリゼ通りを通ることにした。
目当ては、広告塔に貼られているはずのポスター──彼が工房で刷り上げた、デボン社の新作香水のアフィッシュだった。

午後の陽差しに照らされ、広告塔に貼られたその一枚は、たくさんの通行人の称賛を受け、柔らかく輝いていた。
画家エチエンヌ・キャトルスー氏による描き下ろし。香水瓶を掲げ、恍惚とした表情を浮かべる女神像。その全身像を印刷するため、工房最大のプレス機の刷り幅ギリギリを使い、上下を継ぎ足して長さを何とか確保した。工員一同汗みどろになって完成させた力作だった。

「パパがこの絵を描いたの?」

ブロンディンが瞳を輝かせて尋ねた。

エマニュエルは笑って答えた。

「いや、絵を描いたのは偉い画家先生さ。パパたちはその絵を石に写し、刷り上げるんだよ。ひとつひとつ、手でね」
「へえ、パパってすごいんだね!」

と、マリーがこげ茶色の瞳で感嘆の声を上げた。

「そうよ、あなたのパパは、このあたりで一番のリトグラフ職人なの」

ジャンヌが腰に手を当て、少し誇らしげに笑った。

そのまま市場に立ち寄り、夕食の買い物をして帰宅したころには、空は茜色に染まりはじめていた。家の扉を開けると、安堵と共に一日の疲れがほどけていく。

その晩、エマニュエルはベッドに横たわりながら、シャンゼリゼで見た自作のポスターと、娘たちの無垢な笑顔を思い出していた。

「なかなかに充実した一日だったな……」

そう心の中で呟くと、誇りが胸に静かに満ちていく。そして、彼は穏やかな眠りに落ちた。

リソグラフという名の文化的窃盗 — 石版画の名を借りた印刷機の影 リソグラフという名の文化的窃盗 — 石版画の名を借りた印刷機の影 「リトグラフ(Lithograph)」と「リソグラフ(RISOgra...