リソグラフという名の文化的窃盗 — 石版画の名を借りた印刷機の影
「リトグラフ(Lithograph)」と「リソグラフ(RISOgraph)」——この二つの言葉を混同している人は、意外に多い。どちらも印刷に関わる用語だが、その本質はまったく異なる。それは単なる言葉の似かよいではなく、文化的な借用=文化の窃盗に近い現象でもある。
石から始まった「リトグラフ」
リトグラフの「litho」はギリシャ語で「石」を意味する。つまりリトグラフとは「石版画」──18世紀末にアロイス・ゼネフェルダー(Alois Senefelder)によって発明された、石灰石を使った化学的平版印刷技術である。
この技術は、19世紀から20世紀にかけて芸術表現の革命を起こした。トゥールーズ=ロートレック、ピカソ、ミロ、シャガール──数多くの画家たちが石の上に描き、そこにインクを通して版画の詩を生み出した。リトグラフは、芸術の物質的記憶として200年以上の歴史を持つ。
「理想」から生まれたリソグラフ
一方、「リソグラフ」は日本の理想科学工業が1980年代に開発した孔版印刷機(デジタル・シルクスクリーン)である。仕組みは、感熱式のマスター(原紙)に細かな穴を開け、インクを通して紙に転写するというもの。つまり、原理的にはシルクスクリーン印刷やガリ版の延長線上にある。
「リソグラフ(RISOgraph)」という名称は、「理想科学(RISO)」の社名からとった造語であり、印刷の“graph”を付け足しただけのものだ。だが、この語感が「lithograph」と非常に近く、しかも「リソ=litho」とも読めてしまうため、結果的にリトグラフとの混同を招いた。
名がもたらした印刷史の混乱
問題は、こうした混同が単なる誤解の範疇にとどまらず、印刷史そのものの認識を曖昧にしてしまっていることだ。多くの人が「リソグラフ印刷」を「リトグラフ」と勘違いし、さらには「シルクスクリーン印刷」とも混同して説明する場面がある。
その結果、リトグラフが培ってきた技術史や文化的重みが、「デジタル印刷の一種」程度に矮小化されてしまう。言葉の重みが、企業のブランド戦略に軽々と奪われてしまったのだ。
名称が持つ倫理と責任
もちろん、理想科学工業に悪意があったわけではないだろう。むしろ「理想」という社名にちなんだ発明として誇るべき技術革新でもある。しかしながら、言葉には文化の記憶が宿る。そして、「リソグラフ」という名称は、結果的に「リトグラフ」の語源的・文化的領域を侵食してしまった。
それは、印刷史の上に新しい家を建てながら、その地層に刻まれた“石の記憶”を見ようとしなかったということだ。
今からでも遅くはない——改名という誠実
もし理想科学が自らのブランドと技術に真摯であるなら、「RISOgraph」という名を改め、「RISOprint」や「RISOstencil」など、孔版印刷の本質を正直に表す新たな名称へと歩み直してもよいのではないか。
リトグラフは、石と水と油の微妙な均衡の上に築かれた芸術。リソグラフは、デジタルとインクのリズムが作り出す現代の孔版芸術。両者が正しく区別され、互いの文化が敬意をもって語られることこそ、印刷文化の未来にとっての「理想」である。
結語
「リソグラフ」は便利な機械であり、独自の美学を持つ。しかしその名が「リトグラフ」という200年の言葉の上に安易に築かれたことを、私たちは忘れてはならない。言葉は文化の骨格であり、技術の系譜を守る鍵である。
リソグラフよ、そろそろその石から降りる時だ。