「版画する生命：複製と変異の舞踏としての芸術行為」
副題：DNAからフィジカルプリントへ、生命と版画の共振する構造
序章（ドラフト）
デジタル画像が無限に複製され、AIが無数の“創作物”を吐き出すこの時代に、あえて物理的な版を用いて、手でインクを載せ、紙を押し当て、刷る——その行為には、どんな意味が残されているのだろうか。
本稿では、版画という行為を、単なる芸術技法としてではなく、生命現象の根源的な構造と照らし合わせて捉え直したい。生命は自らを複製する。DNAは版であり、細胞分裂は刷りであり、個体とは“刷り上がった”一回性の作品である。そこに必ず生じるノイズ——すなわち変異——こそが、生命を単なる複製マシンではなく、創造的存在にしている。
本論文では、版画と生命のあいだにある驚くべき共通点を明らかにしながら、「なぜ複製を行うのか？」「複製によって個性が生まれるとはどういうことか？」といった問いにアートの側から迫っていく。そして、最終的には「版画することは、生きること」であるという仮説を提示したい。
第二節：複製する生命 ─ 遺伝子から版画へ
生命とは、情報を物質に刻み、複製を通じて継承し、変異を通じて展開するプロセスそのものとも言える。生物学的視点に立てば、DNAの複製は極めて高度な印刷技術のようなものである。核内で、鋳型鎖（テンプレート）に基づいて新しい鎖が「刷られ」、その情報が細胞を、器官を、ひいては個体を形成する。この仕組みは、版画の営みに酷似している。
版を刻み、転写し、繰り返し刷る。そこには「原版」「転写」「複数性」「差異の生成」という、まさにDNA複製にも見られる構造が存在する。しかも、その複製過程において「エラー（変異）」が生じることが、進化と個性を生む。これもまた、版画制作における「失敗」「かすれ」「ズレ」といった偶発的要素が作品をユニークにする現象と重なる。
つまり、版画とは人間が無意識的に、あるいは本能的に「生命のやり方」を模倣して行っている表現行為なのだ。それは単なる美術技法ではなく、生き物としての根源的な欲求──「残すこと」「繰り返すこと」「違いを生むこと」に根差している。
この視点に立てば、フィジカルな複製作品を生み出す行為は、デジタルの時代においてもなお、深い意味を持つ。なぜなら、触れることのできる「版」、繰り返しの中に見出される「差異」、そこに立ち上がる「物語」が、デジタル複製にはない生命性を帯びているからである。
第三節：乱数としての表現 ─ 失敗と偶然を飼いならす芸術
デジタル時代の我々は、精密で制御された複製技術に囲まれて生きている。写真も印刷も、ミスなく同一に複製されることが当然とされ、その“再現性の高さ”こそが技術の優位性として評価される。しかし、その一方で、完璧すぎる複製はしばしば「生命感の欠如」をもたらす。整いすぎたものに、私たちはどこかしら不気味さや虚しさを感じるのだ。
これに対して、版画──特にアルミホイルリトグラフのような即興性と不安定さを含んだ技法──は、偶然性、ノイズ、そして“乱数”を取り込みながら、制御と逸脱の間を行き来する。その刷り上がりは、必ずしも意図通りではない。しかしその「ズレ」や「かすれ」、「にじみ」や「シワ」にこそ、作者すら予想できなかった生命のリズムが宿る。
アルミホイルという素材は、薄く、弱く、そして反応が鋭敏すぎる。人間の油脂、空気中の微粒子、水分や気温の変化──それらすべてに反応し、像を変容させていく。これは、まさに「環境と相互作用する版」なのであり、工業的複製とは異なる、環世界（Umwelt）の中で呼吸するようなメディアである。
乱数（ノイズ）をただの障害と捉えるのではなく、それを「共作者」として迎え入れる態度こそが、この版画技法の核心にある。ここでは、技術的な「コントロール」ではなく、自然的な「共存」こそが重要視される。作家の意図と素材の反応が、互いに予測しきれぬまま、共に作品を生む──この構造は、まさに生物の遺伝的変異や進化にも通じている。
つまり、版画とはただの技法ではなく、「生きるように作る」ための装置でもある。失敗も含め、あらゆる揺らぎを包摂するその制作過程には、現代社会に欠けがちな“非効率”や“予測不能性”への寛容さが宿っている。そして、それこそが今、もっとも失われつつある創造の核なのだ。
第四節：フィジカルな複製の未来 ─ 触れる複製、変わる身体
「見るだけ」の時代は終わりつつある。スクリーン越しの鑑賞は無限の拡張性を持つ一方で、「触れること」「存在すること」への飢えを私たちに残した。リトグラフ、なかでもアルミホイルというありふれた素材を用いたプリミティブな技法は、その渇望に応えるかのように、“触覚的複製”の可能性を開いていく。
インクの厚み、紙の繊維、ズレやにじみ──デジタルが排除してきた微細な物理的誤差こそが、身体を惹きつける。鑑賞者は、目だけでなく皮膚でも作品に触れ、複製物であるはずの版画に“唯一無二”の存在感を感じ取る。これは視覚の占有を打ち破る、「身体の複製受容」とでも言うべき新たな鑑賞態度を促す。
また、版画の「反復されうる」という性質は、身体の記憶にも繋がる。刷りの作業を繰り返すたびに、手はその動きを覚え、力の加減を記憶する。作家の身体そのものが、複製の技法に最適化され、やがて一種の“刷りの身体性”を獲得する。つまり、ここで複製されているのは画像だけでなく、作家の動作、癖、感触、そして感情である。
このように版画とは、身体と記憶が版という媒体に刻まれ、他者に伝播されるプロセスでもある。しかもそれは、完全には複製できない。すべての印刷物には微細な差異が生じ、それが「版画の魂」とも言うべき独自性となって現れる。ある意味で、複製によってこそ、唯一性が生まれる──この逆説的構造は、遺伝子というシステムとも重なり合う。
このフィジカルな複製行為の未来には、可能性が満ちている。たとえば、AIと共同で下絵を生成し、人間の手で刷る。あるいは、バイオマテリアルにインクを置き、成長・変異と共に像が変化する「生きた版画」すら想像可能だろう。そこには、工業印刷では決して到達できない、複製と変異のあわいにある芸術が横たわっている。
この時代にあえて版画をする意味──それは、情報ではなく感触を、正確さではなく生成変化を、速さではなく反復と熟成を選び直す行為なのかもしれない。そしてそれは、身体と世界の接続を回復するための、密やかで力強い祈りである。
第五節：複製と魂 ─ 芸術が生きるとは何か
私たちはなぜ複製するのか？
それは、永遠を希求しているからかもしれない。
あるいは、有限な存在である自己を、何か別のかたちで残したいという切実な欲望。
芸術も生命も、どこかで「痕跡を残すこと」に衝き動かされている。
版画はその最も古く、最も正直な形のひとつだ。
原版は残り、同じ図像が複数存在しながら、決して完全には一致しない。
刷るたびに変わる。かすれる、にじむ、ズレる──そこに作家の集中や疲れが滲み出る。
つまり「魂」が複製されるのではない。「魂」が、複製という行為によって“発露”するのである。
魂とは、たぶん、完全には言語化も複製もできない「ゆらぎ」だ。
だからこそ、複製行為には限界があり、その限界が「生きている感じ」をもたらす。
AIが描いた画像に魂があるか？
あるいは、それを「版」に置いて、人間が刷ったときに、そこに魂が宿るのか？
答えは決してひとつではない。だが確かに言えるのは、「複製の過程そのものにこそ、魂が揺れる空間」が存在するということだ。
このリトグラフ工房「乱数沼」で行われている実験は、その“魂のゆらぎ”を肯定する試みである。
乱数＝偶然、ノイズ、ズレ、ブレ。
そこにこそ人間が存在し、表現が立ち上がる。
印刷の精度を上げるのではなく、あえてその不安定性に乗り、再現のたびに別の「何か」が生まれることを喜ぶ。
それはもはや“製造”ではなく、“繁殖”に近い。
芸術が生きるとは、たぶんそういうことだ。
情報ではなく、現象であること。
固定ではなく、変異すること。
観念ではなく、手触りを持つこと。
そしてそのすべてが、リトグラフという技法の中に──特に、日常的なアルミホイルという素材を用いた実践の中に、静かに息づいている。
複製とは死ではなく、むしろ新たな命の鼓動なのである。